AMラジオの周波数ダイヤルを回していくと、ノイズの波間にさまざまな番組が現れては消える。歌声、ニュース、DJのしゃべり声。語学番組も毎日のレッスンを律義に届けている。そんなリスナーには当たり前の「多局・多番組」が日本で実現したのは、昭和26年だった。
「JOAR、中部日本放送。1090キロサイクルでお送りします。(中略)昭和26年9月1日、わが国で初めての民間放送、中部日本放送は今日ただいま放送を開始いたしました」
午前6時半、名古屋市の中部日本放送(CBC)スタジオから、アナウンサーが興奮気味に伝えた(日本放送協会編「20世紀放送史㊤」)。これに先立つ25年6月1日、放送法をはじめとする「電波3法」が施行され、社団法人日本放送協会は現在のNHK(特殊法人日本放送協会)となり、民間放送局の参入が可能になった。
新聞社や財界が中心になって全国各地に放送局を設立し、26年4月、現在の文化放送やTBSラジオなど16局に予備免許が交付。CBCを皮切りに、次々と放送を開始した。
中でも文化放送は、イタリア人神父らによって設立された異色の存在だった。
「入社直後に見た社内名簿の監査役に外国人の名前があって、不思議だなと」
そう振り返る鈴木敏夫解説委員(61)は、若きアナウンサー時代、東京・四谷にあった旧社屋の第5スタジオで一人黙々と発声練習をした。カーテンをめくると燭台(しょくだい)がある不思議な空間だった。もともとは礼拝堂だったからだ。
「長年の疑問をきちんと解明したかった」と開局65周年だった平成29年、鈴木氏は設立秘話を掘り起こす特別番組「第5スタジオは礼拝堂」を制作した。イタリアから来日した神父が、戦時中の迫害を乗り越えて放送局の設立に奔走する。そんなストーリーが何より面白く、リスナーに届けたいと思った。
開局当初は修道女が放送開始の「キュー」を振ったこと。彼女らは黒装束で走り回っており、局員は「カラス」と呼んでいたこと。当事者しか知りえないエピソードを関係者への取材で引き出した。
文化放送の経営の主導権は後に財界に移ったが、伝えたかったのは、関係者全員が夢と理想をラジオ局に託した事実だ。鈴木氏は言う。「オールドメディアとは、地道な信頼や安心をリスナーに届ける褒め言葉だと思っています。作り手側のラジオ愛、原点を忘れないでいたいですね」
昭和27年にはNHKでラジオドラマ「君の名は」が始まり、「開始時間に銭湯の女湯から人が消える」と言われるほどの人気となった。CBCの音楽クイズ「ストップ・ザ・ミュージック」などの人気番組も生まれた。
日本ラジオ博物館の岡部匡伸館長(61)によると、25年に29万台だったラジオ生産量は、26年は47万台、27年は103万台、28年は150万台と急増した。背景について、岡部氏はこう分析する。
「多くの民間ラジオ局の開局によるコンテンツの充実でしょう。どうしても全国目線になってしまうNHKに対し、民放は地元に密着した身近な情報を流したので好評でした。他のエリアのラジオも聞きたいと、より高性能なラジオを求める動きもあった」
立命館大の飯田豊教授(46)=メディア論=の目には、これがラジオの原点回帰と映る。
「ラジオの起源はアマチュア無線。一期一会で知らない人ともつながるのが魅力でした。話し上手の人と聞き上手の人がいて、送り手と受け手が次第に分化しました。マスメディアでありながら、親密で民主的なニューメディアとして再出発したといえます」
多様性を手に入れ、原点に戻ることで軌道に乗り始めたラジオ。だが、すぐに試練に見舞われる。28年2月に産声を上げた、テレビ放送の台頭である。
昭和26年9月、民間ラジオ局による放送の口火を切ったのは、名古屋の中部日本放送(CBC)と、大阪の新日本放送(現在のMBSラジオ)だ。それまでラジオ放送はNHKが一手に握っていた。各局、NHKから職員を引き抜くなど人材確保に努めたが、その船出は一筋縄ではいかなかった。
「20世紀放送史㊤」によれば、新日本放送では慣れない番組制作に追われ、1週間の徹夜は当たり前。数カ月間、家に帰れない社員が続出した。廊下に設けられた臨時医務室に社員が並び、ビタミン注射を打って駆けずり回ったという。
29年開局と後発組だったニッポン放送でさえ、トラブル続きだった。NHK出身の社員にはCMの概念がなく、直前になってCMテープや時間配分が必要だと判明。前日の段階でもCMテープがそろわないなど、各局まさに薄氷を踏む展開だったようだ。(大森貴弘)