母の暴力が始まったのは小学3年の頃だった。
シングルマザーの母と長女の自分、5歳年下の弟との3人暮らし。
放課後、札幌市内の自宅で母に宿題を見てもらっている時、長女は分厚い国語辞典で頭を殴られた。
容赦ない力の強さ。
「甘」という漢字が書けなかった。母は無表情だった。
休日の昼過ぎ。
居間で母に買ってもらったカップ麺を食べようとして、膝に熱湯をこぼしてしまった。
思わず膝を押さえ、その場にうずくまった。
台所にいた母は無言で居間に入り、娘の首を絞めた。
3秒ほどで力を緩めた母は、何も言わずに台所に戻っていった。
心配してほしかった。
片付けを手伝ってほしかった。
「私はいらない存在なんだな」
涙をこぼしながらお湯でぬれた床を一人で拭いた。
母の暴力と暴言はやまず、中学生時代からは、こんな考えを持つようになった。
「母を殺して、私も自殺しよう」
札幌に住む白羽セラさん(仮名、22歳)は2003年に市内で生まれた。
5歳で両親が離婚。家庭は困窮し、母は働き詰めだった。
小学生のころ、学校から帰ると弟を風呂に入れ、寝かしつけまで担った。
「ヤングケアラーだった」と振り返りつつ、当時は母の助けになれると喜びを感じていたという。
優しかった頃の母は、料理をよく作ってくれた。
カレー、ロールキャベツ、シチュー。
「おいで」
料理ができると、優しい表情で呼んでくれた。
休みの日に作ってくれたバナナラッシーの味も忘れられない。
「また飲みたいな」
今も覚えている記憶だ。
母が変わったのは小学3年の頃。
暴力的な言動が増えた。
白羽さんが自宅でピアノを弾いていると、背後から髪をつかまれ、椅子から床に頭をたたきつけられたこともあった。
「お前なんかいなければ、私は幸せだった」
首も絞められた。
後に知ったが、母は精神疾患を発症していた。今はシングルマザーで仕事と子育てが大変だったとも思うが、当時は「母の機嫌が全てだった」。
母の助けになろうと手伝っていた家事は、いつしか暴力から逃れるための手段になっていた。
中学生になると、食事を与えられないことが増えた。
弟には「学校で給食をいっぱい食べるといいよ」と教えた。
母の奇行も目にするようになった。
夜、台所で何かを叫びながら包丁を銀色の冷蔵庫にたたきつけていた。
高校時代には、母が交流サイト(SNS)で白羽さんになりすまして友人に暴言を送っていたこともある。
大学入試の志願書を目の前で切り裂かれ、試験当日は「死ね」と叫ばれた。
「私がこの人の面倒を見て、弟を守らないといけないのか。これがずっと続くのかもしれない。それなら生きていても意味がない」
ただ、こうも思った。
「母のせいで私の人生が終わるのはおかしい」
記事後半では、白羽さんが母から逃れた手段やその後の「新しい人生」、社会に望むことを紹介します
インターネットで調べると、児童虐待やDV(ドメスティックバイオレンス)、ストーカー、生活困窮などから被害者を守るシェルターや弁護士への相談制度などの支援があることを知った。
警察…