江戸東京野菜の一つ「東京ウド」。その栽培の様子は地上からはほとんど見えず、閉ざされた地下空間で行われる。そんなウド栽培を、時に命の危険と隣り合わせの労働によって支えてきたのが東京都立川市の山下農園2代目の山下明さん(61)だ。冬になると地下に潜り、白いウドを掘り出す営みを繰り返してきた。光を遮断して温度と湿度を保つ手間と技術。江戸の食文化の一端を支える見えない〝価値〟をどう伝えていくのかが問われている。
「昔、火事があって記録が焼けてしまったと聞いています。ただ、(江戸時代初期の)寛永の頃にこの地へ来たという話がずっと伝わっています」
山下農園で口伝に残るのは、新田開発の時代に入植して農業を始めたという祖先の姿。畑と土地、そして語り継がれてきた記憶がこの農園の歴史を物語る。
山下さんによると、農園で東京ウドの栽培が始まったのは父の代から。少なくとも60年以上になるという。武蔵野、国分寺周辺から株が広がり、立川へと定着したウド栽培。関東ローム層の土壌が生育を支えた。
「乾きすぎてもだめ、水が抜けなさすぎてもだめ。その加減がここではつくりやすいのです」
山下さんはもともと測量会社に勤め農業を継ぐ気はなかったという。
「出荷を目前に控えた父がトラックから落ちて足を複雑骨折したことが転機でした」。父の代わりに急遽(きゅうきょ)現場に入ることになった。だが、地下での作業は未知の世界だった。
「ウドのどこをどう切ればいいのかも分からない。とにかく見よう見まねでした」
暗く狭い地下空間。土に囲まれたその中で白いウドが整然と並ぶ光景は強烈な印象を残したという。
収穫から出荷までは過酷だった。地下で切り出し、地上へ運び、箱詰め後に築地市場(東京都中央区)へ。帰宅は深夜で翌朝また同じ作業が始まるが、「良い日は1日で50万、80万円になることもあった。料亭や旅館が直接買い付けに訪れ、市場も活気に満ちていました」と振り返る。
しかし、ウドの市場価格は昭和の終わりに急落した。昭和天皇崩御による自粛ムードで宴席需要の消失が背景にあった。
「4キロ6千円だったものが、900円になりました。桁が違いました。出荷しても採算が合わず、以後、販路は市場から直売に移行しました」
さらにウド中心から多品目栽培へと転換した。冬はウド、夏は露地野菜。リスクを分散する経営へとかじを切った。
現在の最大の課題は農地の確保だという。ウドは毎年、畑を移しながら栽培しなければならないが、相続などで農地は減り、借地も容易ではない。さらに、地下栽培には見えない危険が伴う。
「密閉空間での作業は温度と換気の判断を誤れば命に関わる。酸欠で倒れそうになったことがあります」
酸素の数値ではなく、最終的に頼るのは身体の感覚といい、地下作業の裏側には常に緊張がある。
東京ウドの最大の弱点は栽培の様子が「見えない」ことだ。地下での危険や職人技も消費者には届きにくい。そのため山下さんは、「地下の断面を横から見られる施設をつくりたい」と構想を披露する。実際の栽培空間を可視化し、光の影響を抑えながら見学できる仕組みだ。それにより、価格の理由や生産の実態を伝えられると考えている。
「消費者や関心を持った農業関係者に実際に栽培現場を見てもらえば、『これは値段が高くて当然だ』と分かるはずです」
一方で、地下栽培という特異性は観光資源としての可能性も秘めるとも言う。
「地下で野菜が育つ光景は誰もが驚きます。都市の中で営まれる農業の独自性は東京ならではの価値があるのではと考えています」
さらに食育の観点からも意義は大きい。子供たちにとって、野菜が「土の上で育つもの」という常識が覆される体験になる。
東京ウドはやわらかな食感と香りを持つ。皮はきんぴら、穂先は天ぷらになるなど1本すべてが食材となる。
本来は贈答品として扱われてきた高級野菜だ。しかし、ウド栽培も他の江戸東京野菜と同様に後継者不足は深刻だ。
「魅力がなければ若い人は続けません。地下作業は過酷で決して華やかではない。だからこそ、社会に評価される仕組みが必要」
見てもらい価値を知ってもらう。都市農業の未来は単なる生産ではなく「価値」の伝達にかかっているのではないか。(取材協力 JA東京中央会)