救えなかった後悔、今につなげる 学生犠牲の地で音楽祭 阪神大震災

社会 毎日新聞 2026年01月15日 10:15
救えなかった後悔、今につなげる 学生犠牲の地で音楽祭 阪神大震災

 2025年末、阪神大震災で亡くなった21歳の男子大学生を追悼する音楽会が震災30年目にして初めて、大学生が犠牲になった場所にほど近い公民館で母親らが主催して開かれた。提案したのは当時現場近くで被災者の救出活動にあたった男性。倒壊したマンションの下で大学生が助けを求めていたことを28年後になって知った衝撃がきっかけだった。

 「なんであの時、助けに行かなかったんだろう……」

 25年12月20日、兵庫県西宮市羽衣町の夙川公民館で開かれた「加藤貴光 折り鶴平和音楽会」終了後、近くの地区の自治会で自主防災会長を務める米田和正さん(76)は打ち明けた。

 NHKの幼児向け番組「おかあさんといっしょ」で「歌のお兄さん」だった米田さんは、1979年から夙川沿いの西宮市神楽町で親子体操教室を開いてきた。95年1月17日の震災では、町内の建物が数多く倒壊する中、無事だった教室のあるビルを近所の人の避難所にした。直後の3日間は十分な睡眠も取らずに救出活動や炊き出しを続けた。避難所で窮屈な思いをしている子どもたちに体操教室を開放したりもした。

 その後も、ひび割れたビルのコンクリート壁を保存するなど震災の記憶を伝え、東日本大震災の被災地ではコンサートなどの支援活動もした。

 23年春、震災直後の状況を再調査した民放のテレビ番組で、同じ夙川沿いの西宮市安井町の倒壊したマンションで神戸大法学部2年生の加藤貴光さんが亡くなっていたことを知った。平和に貢献する国連職員を志し、故郷の広島を離れ、夙川沿いで暮らしていた。

 米田さんは震災当日の午前7時過ぎ、母親の家に向かう途中にマンション前を通っていた。テレビ番組では、加藤さんの部屋から午前9時前までトントンと床をたたく音が中から聞こえていたとの証言も報じていた。

 「当時、マンションの近くで知人と会って立ち話したのを覚えている。道1本隔てたすぐそこ。助けに入れば良かった……」。米田さんはすぐに加藤さんの母りつこさん(77)=広島市=に連絡を取り、後悔の思いを伝えた。

◇誕生日に開かれた音楽会

 23年に広島であった5回目の「加藤貴光 折り鶴平和音楽会」にも駆け付けた。りつこさんが代表を務め、東日本大震災で被災した福島県の子どもたちを支援する市民団体「広島と福島を結ぶ会」が主催するチャリティーコンサート。熊本地震(16年)で被災したインストゥルメンタルデュオ「Viento」の吉川万里さんと竹口美紀さんが「平和な世界を願った貴光さんの高い志と一緒に歩みたい」と持ちかけ、18年からほぼ毎年開かれてきた。

 震災から30年となった25年、米田さんは「節目の年。夙川でやることでいろいろな人が集まってくるのでは」と夙川公民館での音楽会開催をりつこさんに打診した。加藤さんの亡くなったマンションと会場は目と鼻の先にあることも説明。りつこさんは「まさか夙川でやれるなんて。胸いっぱい」と喜んだ。

 音楽会は、加藤さんの52歳の誕生日の12月20日に開かれた。神戸大の同級生やりつこさんの知人らで200人の座席はいっぱいになった。加藤さんがりつこさんに宛てた手紙を基に歌手、奥野勝利さん(故人)が作った曲「親愛なる母上様」も、クロマチックハーモニカ奏者の岡直弥さんによって演奏され、涙を流す人もいた。

 りつこさんにとって貴光さんの名を冠した音楽会は、人々に忘れられてしまう「二度目の死」を避ける大切な営みだ。終演後、りつこさんは「今まで夙川に来るのは本当につらかったけれど、奇跡のようなつながりで公演が決まり、今日たくさんの皆さんが寄り添ってくれた。夙川が悲しいだけじゃない、あったかい場所になった。激動の30年だったけど、幸せって思えるようになりました」と涙ぐんだ。裏方に徹していた米田さんはそばで静かに見守っていた。

 「私は家族を失っていないので痛みは分からない。失礼なことかもしれないと思ったけれど、夙川でやることで広がっていくつながりがあると思った」と米田さんは振り返る。国連の会議場でも、Vientoの演奏と貴光さんの平和へのメッセージを披露できないか――。米田さんは次の機会を模索し始めている。【稲田佳代】

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