重厚感のある歴史的建造物とモダンな建物が並ぶ街で、何度も見かける店があった。「bar(バール)」。イタリア人にとって「なくてはならない」場所の一つという。
ミラノ・コルティナ冬季オリンピックの開催準備が大詰めを迎えていた2月初め、ミラノを訪れた。
1900年代前半に建てられたという石造りのミラノ中央駅やゴシック様式の大聖堂(ドゥオーモ)などの歴史的な建物が点在し、イタリア随一のビジネス街としても知られる。世界的に有名なサッカーチームの本拠地でもあり、活気にあふれていた。
石畳の道を歩くと、テラスや店内でコーヒーを飲む人の多さに気がついた。店の看板には「bar」とある。日本のイメージで夜にカクテルなどを楽しむ店を思い浮かべたが、早朝から営業しているという。
1~2ユーロ(約180~360円)程度のエスプレッソコーヒーのほか、酒や軽食もそろう。出勤前に立ったままエスプレッソを飲む人や座って談笑する人たちがそれぞれの時間を過ごしていた。
バールに興味を持ったのは「イタリア人は1日に何度もバールへ行くらしい」という話を聞いてからだった。あらゆる街でバールを見かけ、その多くがにぎわっていた。日本でもカフェで談笑したり読書したりする人は少なくないが、それ以上の何かがあるような気がした。
「ほとんどのイタリア人は行きつけのバールがある。1日に2~3回通う人が多い」。そう話すのは、イタリアで約40年暮らす宮本映子さん(64)。著書に「ミラノ 朝のバールで」(文芸春秋、2008年刊)というエッセー集があり、毎朝のようにバールに足を運ぶという。
宮本さんは広島県尾道市出身。幼い頃からイタリアに憧れがあり、20代前半で移り住んだ。
ミラノの日本料理店で働いていた時にカメリエレ(ウエーター)だったアントニオ・シネージさんと出会い、結婚。アントニオさんが独立後は、子供を育てながら夫が経営するレストランを手伝った。
2人はけんかした日も雨の日も、バールへ行った。宮本さんは「バールに行かなければ、なんだか私たちの1日が始まらないみたいで」と話す。
今も出勤前のアントニオさんとバールで10~15分程度、2人の時間を過ごす。何を話すわけでもない日もあるが、毎朝一緒にコーヒーを飲むことが「仲の良さの秘訣(ひけつ)かもしれない」とはにかむ。
異国で長年暮らす中で、心細さを感じる日もあった。そんなときもバールでの時間が心を整えてくれたという。
行きつけのバールを選ぶ条件としては、(イタリア人がほとんど毎朝飲む)エスプレッソがおいしい▽家や職場から適度な距離にある▽店員の対応や店内の雰囲気が良い――などが重要という。
客のエスプレッソの量やカプチーノの熱さの好みなどを覚えている店員も多い。プロフェッショナルな仕事を感じながらエスプレッソを飲んで出勤する、街中で出会った友人と昼間に一息つく、仕事終わりに居合わせた人とサッカー談議に花を咲かせる――。「それぞれの要請に応じて、バールは姿を変える」という。
宮本さんにとって、バールとはどんな存在か。「私やイタリア人にとって、空気のような存在だと思う。なくなると苦しくなるもの。日本でいう赤ちょうちんや銭湯とも少し違うけれど、バールで過ごすのは、日々の生活に句読点を打つような時間。なくてはならない場所」と語った。
宮本さんとバールで会話している時、何人ものイタリア人に声をかけられた。
「日本に行ってみたいよ」「オリンピックの取材を頑張ってね」
エスプレッソを飲む習慣が根付いているだけでなく、地域の交流の場として機能したり、自分の生活を見つめ直したりする時間をバールは提供していた。
イタリア人にとって最も大事な「サードプレース」であり、精神性を形作る重要な場所だと感じた。【ミラノ山田豊】