「今この場所で地震が起きたら、みなさんはどうしますか」。
2月に行われた高校生向けのオンライン語り部。宮城県石巻市で語り部として活動する高橋正子さん(62)が問いかける。「自分事として考えてほしい」と何度も問いかけ、周囲で災害への備えについて話し合いを促すのが高橋さんの語りだ。
高橋さんは、勤務先だった県立石巻北高校で地震に遭った。自宅は津波で流され、いとこを亡くした。伯母はまだ見つかっていない。
15年前の3月11日、大津波警報を聞いて自宅にいた息子と義母を迎えに行ったが道路の寸断で断念し、連絡が取れないまま車中泊で夜を明かした。避難所に移り、自宅方面から到着したバスから降りる人の中から息子と義母を探した。何台来ても現れず、再会できたのは数日後だった。
避難所で聞こえてくる会話は知人の訃報ばかり。周囲から顔が変わったと言われるほど心労がたまっていった。仮設住宅での生活が始まると、人材派遣会社で復興に携わる仕事に就いたが、体調が悪化し入院することになった。
療養生活中、目にしたのがインターネット上での被災者や被災地に対する心ない投稿だった。「誰かが正しく伝えないと」と語り部になることを決意した。石巻にある公益社団法人3・11メモリアルネットワークで震災の語り部活動を始めた。
「伝えることが使命」と考え、自身の経験や津波と津波火災の被害に遭った石巻市立門脇小学校での出来事についても話す。取材を受けたときには、記事を見た人から「私たちの思いを言ってくれてありがとう」と感謝され、「言えない人たちの代わりなんだ」とより責任感が増した。
震災前から大地震が来るとは言われていたが、自宅のあった長面(ながつら)地区は昔から「安全な場所」と言われていた。当時のハザードマップでの津波予測を大幅に超え、自宅は流され、近所の多くの知り合いも命を失った。震災後、長面地区は住宅の建築が制限される災害危険区域に指定され、あたりは一面の更地に様変わりした。
「大丈夫ととどまり、避難しないことの怖さを知ってほしい」と語り部を続ける。当時高校生で自宅にいた息子が高台に避難した話も紹介しながら、避難することの大事さを強く伝えている。
伝え始めて8年半ほど。語り部活動は千回を超える。話しているうちに思いが高まり、人前でこそ涙を見せなくなったが、今でも語り部が終わると涙が流れることもしばしばある。
ようやく正月を穏やかに過ごせるようになったた2年前には、能登半島地震が発生。津波による人的被害が生じた報道を見て「あの日の私に戻った」と辛い思い出がよみがえった。
午前の暖かい陽気が、午後になり雪が降り冷え込んだあの日。似たような天候になると嫌でも当時を思い出す。15年がたち、街並みはきれいになったが、「気持ちは何も変わっていない」。
時が進み、当時を知らない若い世代も増えてきた。「より多くの人に命を守ることを考えるきっかけを作りたい」。そのまなざしは前を向いている。(梶原龍)